問題行動に対する事情聴取

参照:

黒川亨子『「学校の常識」を法的観点から問い直す―人権教育を「砂上の楼閣」にしないために―』

立命館法學2021年5・6号(2022年)316頁以下 など。


学校の事例

 例えば、教室の窓ガラスが割られた等の問題行動が起こった場合、

教員が、事実確認のためにその場にいた生徒たちに事情聴取を行う際には、

「ガラスを割った者は正直に言いなさい」「事情を知っている者は名乗り出なさい」との

指導がなされるのが通常であり、聴取の前に「言いたくなければ言わなくてよい」との言及はなされない。

 

 また、特定の生徒数名の中に真犯人がいることがほぼ確実な事例(例えば、高層階の教室の

ガラスが割れた音がした直後に、廊下にいた教員が入室し、教室内にいる生徒を特定できた場合)において、

生徒たちから「自白」がなく、決め手となる客観的証拠もないときに、

「誰がガラスを割ったのかはっきり分からないから、全員を無罪放免にする」として、

当該案件を簡単に終結させることはない。

 

 「正直に言うように」との生徒に対する執拗な説得が、長時間続くのが通常である。

法的観点からの検討

 私が、この問題に気づいたのは、本学の大学院に学びに来ていた中学校社会科教員の指摘のおかげである。

当該教員は、私の刑事訴訟法の講義に出席していた。

 

 私は、

 ・「疑わしきは、被告人の利益に」(憲法31条)という無罪の推定の原則や

 ・刑事裁判には、「真実発見」と「無辜むこの不処罰」という二つの目的があり、

  両者が衝突した場合には、「無辜の不処罰」が優先されることを説明した。

 ・「10人の真犯人を逃すとも、一人の無辜むこを罰するなかれ」との法格言も紹介した。

  もし逆に、多くの人の平和な暮らしのために、1人の無実の人を犠牲にするとの考え方は、

  国家のために個人を犠牲にすることになり、憲法13条の個人の尊重と反してしまうからだと説明した。

 

 授業終了後に、当該教員は、わざわざ私がいる教壇の方まで来てくださり、

「真実発見」より「無辜の不処罰」が優先される、なんて全く知らなかった、

今日の講義は身につまされる内容だった、とおっしゃった。

 

 詳しく聞くと、「自分が生徒たちを追及して自白させたときに、もしかしたら、真犯人ではない子が、

教員の長時間の追及に耐えられず、自白したかもしれない。早くお説教を終わらせて、

家でテレビが見たいとの単純な動機かもしれないし、本当の犯人を知っているけれども、

それを言うと後でいじめられるから言えない。

 教員からの追及と、立場の強い真犯人からの無言の圧迫によって、

うその自白をしたかもしれない。自分のしてきたことが本当に怖くなった」、とのことであった。

 

 言いたくないことは言わなくてもよい権利は、自己決定権(憲法13条後段)、

沈黙する自由(憲法19条)、消極的表現の自由(憲法21条1項)、黙秘権(憲法38条1項)など、

憲法のさまざまな条文を根拠に導くことができるが、ここでは、黙秘権を取り上げて論じることとする。

 

 悪いことをしたのにそれを認めない、又は、弁明すらせず黙っていることは、

道徳的にはよくない行為とされるだろう。

 

 しかし、「悪いことをしたのであれば正直に申告せよ」との道徳的価値を強制すれば、

論理的な帰結として、拷問を肯定することになる、との指摘がある。

 

 刑事手続における拷問は、教育現場における体罰に該当する。

 

 学校での自白義務を前提とした事情聴取は、結果として、体罰を容認することになってしまう。

 

 憲法31条は適正手続について一般的に規定し、32条以下で具体的内容を個別的に定める。

もっとも、憲法31条以下の規定は、刑事手続に関する規定であるため、学校という教育の場で、

これらの規定が直接適用されることはない。

 

 しかし、生徒指導において、教員は、いわば刑事手続における捜査機関と裁判官両者の役割を担い、

また、生徒に事実上の「取調受忍義務」を課して事情聴取をする。その際、「無罪の推定の原則」は働かない。

 

 このような学校の現状をふまえれば、生徒指導において適正手続(憲法31条)や黙秘権(憲法38条1項)の

保障を及ぼす必要性は、非常に高い。

 

 憲法31条の適正手続は、刑事手続以外の行政手続においても準用ないし適用されると解釈されており、

子どもたちを個人として尊重するのであれば、教育の場においてもこれらの保障を及ぼす必要がある。

 

 それゆえ、子どもたちを個人として尊重する学校においては、事情聴取の前に、「あなたには黙秘権がある。

言いたくないことは言わなくてよい」ことを伝えなければならない。

 また、一方的に犯人だと決めつけたり、子どもたちの誰かが自白するまで帰宅させずに

長時間拘束したりする指導をしてはいけない。

また、事前に告知を受け、聴聞の機会を与えられることは、子どもたちが自己の利益を弁護するために最低限必要であろう。

 

 黙秘権を告げたために、かえって指導が困難になることがあるかもしれない。

しかし、子どもたちには、言いたくないことを言わない権利があるために、その態度を非難すべきではない。

 

 この場合には、教員は、黙秘する子どもたちに対し、間違った行為や結果を自ら選択したときには、

その責任は自ら負うべきことになることを理解させればよい。そして逆に、もし自ら自分の不正行為を

告白した場合には、勇気ある行動として、その自己決定を評価すべきである。

 

 教員は、子どもたちから自白が得られず、誰が真犯人であるかを断定できなくなったとしても、

仕方ないと割り切るしかない。真相の解明の要求よりも、無辜の不処罰の要求が優先されることとなる。

 

 このような提案に対し、「そんな甘い考えは通用しない」との反論があるかもしれない。

しかし、当該反論は、憲法で保障された子どもたちの人権を無視してきた学校現場の慣習を、

従来通り、憲法に優先させて適用することを意味する

 

 子どもたちの人権を無視する学校で、人権教育が実を結ぶことはない。

 

「甘い指導かどうか」という問題ではなく、「法的にやっていいことかどうか」という問題であることを、

強く認識しなければならない。

 

 犯罪捜査のためであれば、警察官は何をやってもいいわけではなく、

「令状主義」(憲法33条及び同法35条)、「黙秘権の保障」(憲法38条1項)、

「拷問の禁止」(憲法38条2項)など憲法上の義務を守って職務の執行をしなければならず、

その結果、真犯人を逮捕できなくとも仕方ないこととなっている。

 

 教員も同様である。

 

 「教育に必要だから」「子どもたちのため」などの理由があれば、何をやってもいいわけではなく、

憲法で許された範囲でのみ職務の執行が許されているにすぎない。

 

 仮に必要であってもやってはいけない、という歯止めが憲法であり、

公務員は憲法を守らなければならない。これが憲法99条の意味するところである。