人権教育

参照:

黒川亨子『「学校の常識」を法的観点から問い直す―人権教育を「砂上の楼閣」にしないために―』

立命館法學2021年5・6号(2022年)316頁以下 など。


はじめに

 私が、本来の専門外である「人権教育」に足を踏み入れたきっかけは、以下のとおりである。

 

第一に、現在、小中学校の授業にて行われている「人権教育」の内容が、

 

 私が、

  ・大学~大学院を通じて学んできた「人権」や

  ・法学研究者となってから、勤務先の大学にて講義してきた「人権」とは、

 全く異質のものであったためである。

 

  インターネット上には、法律学の学問的成果を一切無視した、

 「人権」が法的概念であるということを知らない教員による(?)、

 「人権教育」の実践例や指導案などが、大量に掲載されている。

 

   後述するように、

  小中学校では、「人権」=「弱者への思いやり」である、との指導が、

  中心となっている。

   一方、大学での法律学の講義では、そのような指導はなされない。   

 

   法的概念である「人権」について、小中学校で指導される際、

  なぜ、法律学の学問的成果を無視した指導がなされるのだろうか。

 

   小中学校という公的機関において、「人権」を授業として取り扱う以上、

  学問としての正確性を担保しなければいけないのは、当然のことである。

 

  ※ もちろん、学習者の理解度を踏まえた教育内容や方法の工夫は、

   当然なされるべきである。

     しかし、当該「工夫」にあたっては、学問としての正確性を

   担保すること(担保できること)が大前提であろう。

 

   「『人権』は、小学生には理解するのが難しいから」等の理由で、

  本来の「人権」概念とは全く異なる説明を、授業で行ってはいけないはずである。

 

 大学や大学院で学ぶ「人権」と、小中学校で学ぶ「人権」が、違う内容でよいのだろうか?

 

 大学の法学部に進学しない大多数の国民は、「人権」を誤って理解したままではないだろうか? 

 

 以上の疑問を抱いたことが、「人権教育」に取り掛かった当初の動機である。

 

 

第二に

 

  人権について、理解が不足している教員がいる学校で、子どもたちの人権は

 保障されているのだろうか、との疑問もある。

 

  後述するように、本務先の宇都宮大学での現職教員への指導の経験上、

 「公立学校勤務の教員(公務員)が、自身に憲法尊重擁護義務(憲法99条)が

  あることを知らない」事例が複数ある。

 

  いわゆる「ブラック校則」がある学校で、人権教育を行う滑稽さを考えれば明らかなように、

 人権侵害が常態化している学校で、子どもたちが人権の意義や重要性を理解することはない。

 

  人権が、絵に描いた餅になっている場での人権教育に、何の意味があるのか、との疑問である。

 

 

第三に

   

  現在、教員が過酷な労働環境におかれ、「人間らしく生きる権利」が十分保障されていないことは、

 大きな社会問題であり、一刻も早く改善される必要がある。

 

  しかしながら、多くの国民が、法や人権について正しく理解できていない現状こそが、

 「教員の人権」が理解されない一因であろう。

 

  すなわち、教員が、自己の人権について正当な主張をしたとしても、

 その受け手である子どもたちや保護者の人権理解が誤っていれば、

 真っ当な主張であっても理解されることはない。

 

  また、人権について理解不十分な教員が、子どもたちの人権を侵害しておきながら、

 他方で、自分の人権だけ保障してくれと主張しても、誰も聞く耳を持たないだろう。

 

  さらに、多忙化の一因は、教員の法的な認識に誤りがあるために、本来、教員が

 「法的にしてはいけない」ことまでやっているからなのではないか、とも考えられる。

 

  このような事態は、直ちに改められなければならず、

 また、人権教育を公的機関である学校で行う以上、

 学問としての正確性が担保されていることが最低限必要である。

 

  そのために、まずは、教員が法や人権について正しく理解し、

 学校を子どもたちと教員の人権が十分保障される場にしたうえで、

 正しい人権教育を行うことが喫緊の課題である。

自分に憲法尊重擁護義務があることを知らない公立学校の教員?

  まず、「人権教育」を行う教員自身の資質に、問題がある場合がある。

 

  公立学校の教員(公務員)には、憲法尊重擁護義務がある(憲法99条)。

 

  人権を守らなければならない義務があるのは、国家権力の側に立つ公務員(教員自身)であり、

 一般国民(児童や生徒)ではない。

 

  この憲法の基本構造を理解しないで(!)、「人権教育」を実施する教員がいる。

人権=(他人である)弱者への「思いやり」?「やさしい心」?

  小中学校では、「弱者(例えば、障碍者)を思いやりましょう! やさしい心を発揮しましょう!」との教育が、

 「人権教育」として実施されている。

 

  小中学校では、以上のような「思いやり教育」が、「人権教育」の中心を占めている

 

  しかし、「人権」と、「思いやり」「やさしさ」は、全く別次元の概念である。

 

  すなわち、Aの「人権」とは、Aが生まれながらにもっているものであり(人権の固有性)、

 当然の権利として、普遍的にAに内在するものである。

 

  他方で、Aに対する「思いやり」や「やさしさ」とは、

 他者であるBやCが、Aに対してどう接するか、という問題である。

   

  BやCという他人の気持ち次第で、保障の程度が変わる「思いやり」や「やさしさ」と、

 普遍的にAに内在するAの人権は、まったく別次元の概念である。

 

  ※大学での人権の講義において、「思いやり」や「やさしさ」に言及することはない。

   上述したように、「人権」と「思いやり」「やさしさ」とは、全く別の概念だからである。

    

   小中学校での「人権教育」とは、いったい何なんだろうか?

   「道徳教育」として、「思いやり」や「やさしさ」を教えている、と言われれば、納得できるが。

 

   人権教育を実施する小中学校の教員は、「法」と「道徳」との違いを理解していないのだろうか?

「人権」と「思いやり」は、どちらが優先するのか?

  上述したように、「人権」と「思いやり」は、まったく別次元の概念のため、

 両者が矛盾したり、相反したりすることがある。

 

  日常生活においては、正当な権利行使が、他人を傷つけることがある。

 

  また、発言によって、他人が傷つく可能性があったとしても、

 正当な批判をしなければならない事態も生じる。

 

  そのことを教員は、理解して指導しているのだろうか?

 また「人権」と「思いやり」とが矛盾するとき、どちらが優先するのか、理解して指導しているだろうか?

 

 例えば、

  Aにいじめを行ったBが、真摯に反省し、Aに謝罪した。

 教員は、Aに対し、「Bは十分に反省しているから、許してあげましょうね」と指導した、としよう。

 

  しかし、Bを許すかどうかは、Aの自己決定(憲法13条前段)次第である。

 

  教員が、Aに対し、「(真摯に反省している)Bを思いやって、許してあげましょうね」と指導すること自体が、

 教員によるAに対する人権侵害になりうる。

 

  ※公立学校の教員(公務員)には、憲法尊重擁護義務がある(憲法99条)。

 

  教員と児童(生徒)という上下関係の下では、教員にそのつもりがなくても、

 児童(生徒)にとってみれば、教員の発言には一定の強制力がある。

 

  教員は、そのことを十分自覚したうえで、Aの自己決定権を保障しなければならない。

 

 「Bを許すかどうかは、あなた(A)が決めてよい。許せなかったら許さなくていい」という指導が必要である。

「人権の本質」「個人の尊重」「自分の人権」は学習しない?

 一方で、人権の学習として、最も重要であると思われる「人権の本質」や

「個人の尊重」(憲法13条前段)を、小中学校で扱われることは、ほとんどない。

 ※大学の人権の講義では、これらの内容は、基礎的な内容として必ず言及される。

 

 また、「自分に、どのような人権が保障されているか」という観点からの学習指導は、ほとんどなされない。

 

 上述したように、

小中学校での人権教育は、「他人」である「弱者」への、「思いやり」が中心となっている。

 

 それゆえ、「思いやれる」「弱者」への、上から目線の指導(例:「障碍者にも人権があるんですよ」)と

なっている危険性が高い(もちろん「人権教育」としては、誤った指導である)。

 

 さらに、「誰にでも等しく人権がある」との指導がなされる一方で、

 

 ・「思いやり」、「やさしい心」を発揮しにくい人の人権(例えば、被疑者・被告人の人権、死刑囚の人権)は、扱われない。

 ・弱者でない者(例えば、社会的に地位の高い人)に対する人権侵害の事例は、扱われない。

 

  あまりに偏った、誤った指導ではないだろうか?

「人権教育」なのに、「対国家」の視点は皆無?

 さらに、法律の専門家(法学研究者や法曹関係者)からみて、違和感を感じるのは、

「人権教育」なのに、「対国家」の視点がほとんどないことである。

 

 誰もが有する基本的人権は、憲法に記載されている。

この基本的人権を保障するのは、国家の義務(憲法99条)である。

 

 もし、基本的人権が保障されていない現状があれば、

国民は、国に対し「基本的人権を保障せよ!」と要求できる。

 

 なぜ、小中学校の「人権教育」において、この憲法の基本構造を教えないのだろうか?

 

 ※大学での講義では、当然に上記の指導がなされる。

「人権教育」で、「互いの良いところを褒め合う」?

  小学校では、「人権教育」の一環として、「互いの良いところを褒め合う」取組みが実施されている。

 

   ※活動の名称はさまざまであるが、

    例えば、友人の頑張りや良いところを記したカードを掲示したり、ポストに入れたりした後に、

    相手に口頭で伝える活動や、クラス内で毎日「今日のキラキラさん」を選ぶ活動等がある。

 

  「互いの良いところを褒め合う」取組みは、「個人の尊重」(憲法13条前段)に反するのではないか、

  との疑問がある。

 

   「個人の尊重」とは、人は、「良いところ」があるから尊重されるわけではなく、

  良いところが一切なくても尊重されることを意味する。

 

   すなわち、人には、生まれながらの能力の差、性格の良し悪しなどの違いがあり、

  ひとりとして同じ人はいないからこそ、かけがえのない存在であり、その存在自体が尊重される、

  との考え方である。

 

   友人の「良いところ」を見つけ、それをカードに書いて褒め合ったり掲示したりする取組みは、

 「他人から見た評価」が「自分の評価」となり、「他人が認めてくれる良いところが、私の価値である」となる。

 

   他人が褒めてくれるように、他人の価値観に沿うように行動し、

  一方で、他人に理解されにくい自分の特質は、隠しておくことになってしまう。

  これは、「個人の尊重」とは正反対の帰結である。

 

   「Aさんには、こういう良いところがあり、Bさんには別の良いところがある、

   どんな人(目立たない児童)であっても、何らかの良いところがあるんだから、

   尊重し合おう」との取組みであれば、人権教育としては誤りである。

 

   繰り返しになるが、「良いところ」が一切なくても尊重されるのが、「個人の尊重」である。

 

   もっとも、このような「互いの良いところを褒め合う」取組みを、全否定する意図はない。

  すなわち、このような取組みが、例えば、クラスの人間関係作りのための基底的指導として

  行われることまで否定する意図はない。また「道徳教育」の一環だと言われれば、まだ納得できる。

   「人権教育」として、「互いの良いところを褒め合う」取組みが行われることに疑問があるのである。

  ※もちろん、大学での人権の講義において、このような取組みはなされていない。

「人権教育」で、「コミュニケーション能力を身につける」?

 文科省は、「学校における人権教育の取組の視点」として、

 

 「具体的には、各学校において、教育活動全体を通じて、例えば次のような力や技能などを総合的に

  バランスよく培うことが求められる。

 

 1. 他の人の立場に立ってその人に必要なことやその人の考えや気持ちなどがわかるような想像力、共感的に理解する力

 2. 考えや気持ちを適切かつ豊かに表現し、また、的確に理解することができるような、伝え合い、わかり合うための

  コミュニケーションの能力やそのための技能

 3. 自分の要求を一方的に主張するのではなく建設的な手法により他の人との人間関係を調整する能力及び

  自他の要求を共に満たせる解決方法を見いだしてそれを実現させる能力やそのための技能」

 

 を指摘する。

  https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/024/report/attach/1370713.htm 

 文科省ウェブサイト「学校における人権教育」(2024/09/10最終確認)

 

   表現力を高め、コミュニケーション能力をつけることが、なぜ人権教育につながるのだろう、

 人権教育と何の関係があるのだろう、との疑問である。

 

  ※大学教育においても、コミュニケーション能力の習得は、重要であるとされている。

   しかし、「コミュニケーション能力」は、学問分野を問わず、一般的に要求されるものである。

   したがって、大学における人権の講義において、コミュニケーション能力の習得の必要性などが、

  特別に言及されることはない。

 

   現職の小学校教員に質問したところ、「『いじめ』は人権侵害である」との認識を前提として、

  「人権侵害があったときに、声を挙げられるように、コミュニケーション能力が必要」との回答であった。

 

   しかしながら、被害者が、人権侵害に気づいていなければ、

  また声を挙げても救済される期待が少なければ、救済を求める声は、永遠に挙がらない。

 

   したがって、コミュニケーション能力をつける教育をする前に、

  人権とは何か、その本質について勉強し、身近に起こりうる人権侵害の具体例を数多く示して、

 「こういうことは人権侵害ですよ、こういう被害があなたに起こっていませんか」等の

 具体的な問いかけをすることが重要である。

 

   そして、人権侵害が起こった際に、どのような救済策があるのかを教え、

 一番重要なことは、実際に救済することである。

 

  初めに声を挙げた被害者が、「勇気を出して、先生に助けを求めてよかった」と思わなければ、

 それに続く救済の声も挙がらない。

「人権侵害」があった場合の救済方法は、教えない?

  小中学校の人権教育で、自分が人権侵害があった場合にどうすればいいのか(具体的救済方法)について、

 教えることはほとんどない。

 

  人権の重要性を説く一方で、人権侵害に対する救済方法を教えないのは、なぜなのだろうか?

 

  上記のような、指導する教員の理解力不足も、大きな原因のひとつである。

 

   そもそも教員自身が、人権侵害の具体的救済方法を知らない可能性がある。

    

   また、

   人権=思いやり、と誤解している教員は、

   実際に、人権侵害があったときには、「思いやりが足らなかったですね。今後は気を付けましょう。

   もっと思いやりを持ちましょうね」と呼び掛けて終わり(「「配慮不足」であったと結論付けて、

   結局は何もしない)である。

 

   また、教員から、人権侵害の防止策(?)として、

  「相手の気持ちになりましょう」「弱者(例えば障碍者)の気持ちに共感しましょう」との呼びかけが

  頻繁になされている。

 

    ※ 児童・生徒には、内心の自由(憲法19条)が保障されている。

    児童・生徒が、心の中で何を思うかは、まったくの自由(絶対的保障、公共の福祉による制約なし)であり、

    公立学校の教員(公務員)が、児童・生徒の「心の持ちよう」に踏み込むことは、重大な憲法違反である。

 

   ここで、「共感」と、「理解」との違いが重要である。

  「共感」とは、他人の考えていることを、その通りだと自分も同じ感情をもつことであり、

  「理解」とは、他人の考えていることを、正確にくみ取ることである。

 

   「個人の尊重」とは、「あなたの考えに『共感』はできなくとも、『理解』はする」という意味である。

 

   相手の価値観に共感できないのはお互い様であって、共感できなくてもよいから、

  自分とは異なる考え方の人もいることを理解し、異なる他者をお互いに尊重しましょう、というのが、

  「個人の尊重」である。 

  

  なお、大学の人権(法律学)の講義では、当然ながら、人権侵害があった場合の具体的救済方法について学習する。

  また、「人権侵害は、心の問題である。人権侵害が起こらないように、

  他者を思いやることが大切である」などという視点からの講義は全くなされていない。

「人権の標語づくり」や「人権コーナー設置」の教育的効果は?

 「人権教育」の一環として、「人権の標語づくり」や「人権コーナーの設置」などの取組みがなされることがある。

 このような取組みに、教育的効果はあるのだろうか?

 

  まず、そもそも、「思いやりの心を大切に!」などという誤った内容の、

 人権の標語づくりであれば、論外である。

 

  次に、仮に、正しい内容の標語、たとえば、「どんな人間にも人権がある。個人として尊重しよう」という標語が、

 掲示されたとしよう。子どもたちがその標語を毎日目にしていれば、無意識のうちに、人権感覚が身につくのだろうか。

 

  もっとも「ポイ捨てをやめよう」という標語のように、

   ・標語の意味するところや、

   ・その理由が誰にでも明らかで納得できるもの(ゴミが散らばり汚いから、誰かが片付けないといけないから)であり、かつ

   ・簡単な行動(ゴミはゴミ箱に捨てる)で、標語の内容を実現できるような場合には、

 

  標語を掲示し、呼びかけることによって、ゴミはゴミ箱に捨てるよう習慣づく可能性があり、

 標語の内容を修得させる教育的効果はあるかもしれない。

 

  しかし、上述の人権の標語の場合、理屈の上では、その内容を理解できたとしても、当該概念を自分のものにし、

 人権感覚を身に付けることは、実際には大変難しいことである。

 

  例えば、新型コロナウィルスに罹患し、重症化して病院に運ばれた際に、酸素吸入の装置がひとつしかない、

 一方で患者は自分のほかにもう一人いて、その患者がホームレスの方だった場合、「どんな人間でも尊重され、

 等しく取り扱われるべきだ」と冷静に言えるだろうか。

 

  実際には「ホームレスの人権よりも、社会的に一定の地位を占めていて、税金も納めている自分の命が

 優先されるべきだ」とならないだろうか。「自分の命もホームレスの命も等しい価値があり、治療のチャンスは

 平等であるべきだ」と、標語の意味や理由を理解し、標語内容の実現に向けた行動、すなわち、

 ひとつしかない酸素吸入装置をホームレスに譲る可能性があることを受け入れることは、実際には非常に難しい。

 

  このように、人権感覚は、標語を無意識に眺めているうちに、身につくようなものではない。

 まして、「人権の本質」についての学習すら行わずに、人権の標語を掲げても、綺麗事にすぎない。

 

  人権感覚を身につけるためには、正確な知識を学び、また自分の人権が保障されていることを体感する中で、

 自分に保障されている人権が、どんな人にも保障されていることを、自己に定着させる地道な作業が必要である。

 

  ホームレスの命より、社会的地位を占めている自分の命の方が重要だ、との差別意識や偏見が、

 自分の中にあることを認め、それを知識や体験の力で何とか封印し、溶解させるに至ることは、

 実際には至難の業であろう。

 

  人権の本質についての学習すら行われていない状況で、標語を掲げて「人権教育の一環です」とすることは、

 体裁を繕うものにすぎない。

「人権作文」への違和感

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